孔子の言葉が今、とても心に響く。孔子の生き方から学びます。

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孔子の名言が、現代に生きる私たちを力づけてくれます





人間関係で疲れたとき時や、仕事に失敗した時に、何か勇気づけられる名言を思い出して、頑張れるときがありますね。

孔子の名言も、心のよりどころになるものが多いです。たとえば・・・


君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

意味:優れた人物は、人と協調するが主体性を失うことが無く、小人物は表面的には周りの人達と同調するけれど、心から親しくなることはない。




過ちて改めざるを、これ過ちという。

意味:人はだれでも過ちを犯すもの。過ちを犯したことに気づきながらも、を改めようとしないこと、それこそが本当の過ちである。



などなど。



中国の大昔の思想家、哲学者である孔子ですが、大昔に語られた孔子の言葉が現代にも通じる言葉として残っているなんて、本当にすごいですよね。



心に響く教えを沢山残した孔子。



どんな人物だったのか、どのような人生を生きてきたのか、ものすごく興味が湧いてきて調べてみました。



以下にまとめました孔子の生き様を頭に入れながら、孔子の残した名言を読み返してみると、また違った新しい考え方やものの観方が、自分の中で培われ、人生の糧となることは間違いないですよ!!

是非、ご一読くださいませ💝

その出身は中国の魯の国





出身は魯の国です。

(余談ですが、孔子の家系図は2005年にギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されていて、そのくらい孔子の血は現代にまで脈々と受け継がれています。)



魯の国は周公旦が開いた国と言われていて、孔子はこの周公旦を理想として、仁道政治の思想を掲げ、聖人と崇めました。



つまり「周公旦こそが、我が理想!!」ということです。



この聖人と崇めた周公旦は、実は孔子が生まれる500年も前に活躍した周王朝の政治家です。つまり、孔子が生まれた頃にはもうすでに、この世の人ではなかったのですね。



では誰から孔子は、周公旦の思想を学んだのか。



孔子が誰かに師事したという記録は残っておりません(老子に師事したという一説はありますが)。



そうすると、孔子の思想はどこから生まれたのか、ということになります。



孔子の生まれた国、魯の国では周公旦の残した『周礼』や『儀礼』があり、魯国ではその習慣が色濃く残っていました。

その伝統の中から、孔子は仁道政治とはどうあるべきかを、独学で学んだと言われています。



その教えを孔子の弟子たちが後世にまとめたものが『論語』であり、儒教の教えとして世に広まっていったのでした。
孔子の生い立ちは波乱万丈


孔子のお父さんは叔梁紇(しゅくりょうこつ)という名前の軍人戦士。

70歳を超えていたと言われています。



お母さんは身分の低い巫女の、顔徴在(がんちょうざい)という女性。

お母さんは16歳と言い伝えられています。



出生に関しては諸説がありますが、いずれも確かな話ではありません。

でも、身分は決して高くはなかったということは、広く言われています。

偏見になってしまうかもしれないのですが、本当にこんなに年齢に差があり、身分も高くないのだとしたなら、その生活は大変だったと思います。



しかも、お父さんは孔子が3歳の時に亡くなってしまい、お母さんも孔子が17歳の時に死去。天涯孤独になった孔子は、一人勉学に励むことになります。



裕福な家庭ではなかったためか、孔子がどのように勉強をして学問を学んだか、こちらも定かではありません。特定のどこかの学校に入って学んだのではなく、独学だったと言われています。



両親が亡くなって、一人で学び続けるなんて、すごいですよね~!!
結婚、就職、出世、失望・・・、孔子の生き様は私たちに似ています





19歳で結婚して、子どもの鯉を授かった孔子。



魯の国のために働く仕事、つまり役人の仕事にめでたく就職します。

君主のためにと心血を注いで、まず倉庫を管理する仕事、次に牧場を管理する仕事に就きます。この頃から、孔子を慕って弟子入りする人達が出始めました。



孔子は自らの君主、昭公に尽くしますが、昭公が内乱により斉の国へ追放されます。

孔子もあとを追って36歳の時に、斉の国へ亡命。



亡命までしなくてはならないなんて、自分が信じる君主のことを思ってのことですが、自分の信念を曲げることが許せなかったのだと思います。



しかし、亡命の期間もそんなに長くはなく、のちに魯の国に戻っています。



魯の国に戻ってからは、長く仕官することはなく、弟子を取って勉学に励む毎日を送りました。



この間にも、仕官のお誘いの話がきますが、実現しませんでした。



そうして52歳の時に再び仕官し、定公に遣えることになります。

当時、魯の国は隣国の斉と和議が成立し、会見をすることになりました。



その時の舞楽隊の風貌を不信に思った孔子は、隊の手足を切って定公を守りました。

この功績から、最高裁判官でや外交官に就任。





国と君主を守るため、仕事をし定公に進言していく孔子ですが、その後の人生は下降曲線を描きます。



良かれと思い君主に進言するも、孔子の意見は通らず。むしろ反対意見の方が勢いづいてきて、国政の世界に失望した孔子は、とうとう仕官を辞することになります。

しかも、国政に反対する勢力とみなされて、魯の国を出て再び亡命生活を余儀なくされました。

何ということでしょう・・・。
人生の終盤にはまた数々の不幸に見舞われながらも、勉学に励む孔子


その後の亡命生活は13年に及び、弟子たちと共に諸国を転々とすることになります。



孔子が亡命生活をしている間も、魯の国は隣国に攻めれられて、国内はボロボロ。そうして、孔子が69歳になったときに、やっと魯へ戻ることができました。

しかし、この年孔子の子、鯉が50歳の若さで死去しました。

孔子は子に先立たれるという不幸に、また見舞われたのでした。



時の君主哀公に、隣国を責めるよう進言しますが、またもや聞き入れられず、失望のどん底へ落ち、嘆く事しかできませんでした。

孔子は。君主としては孔子の持つ才能を認めても、提案や進言に対しては自分の意見を通すという、なんとも自分勝手な君主にばかり仕えていたのでした。



つまり、時の君主たちは孔子のネームバリューを利用していた、という構図になるのではないかと思いました。



それじゃあ、孔子だって納得いかないですよね。



孔子の人生の試練はまだ続き、一番にして最愛の弟子だった顔回が赤貧のために死去し、次いで一番の理解者で隣国衛に仕えていた弟子の子路も、君主を謀反から守り惨殺されました。



晩年は不幸続きの孔子で、失意のもと74歳でこの世を去りました。
理想を掲げながら、人生を生き抜いた孔子





自らの理想や思想を曲げることなく、常に正しいと思った行動を取り続けた孔子の姿は、正直に生きることで損をしてしまう現代に生きる私たちの生き方に、とても似ていると思いました。



周公担の建国した魯の国の、理想を貫くために生き抜くも、時の権力者に受け入れられず失意のもと勉学に励んでいた孔子。

その教えを後世に残すべく、弟子たちが集約して残したのが『論語』で、教えとしてまとめられたものが「儒教」となります。



世の中に失望しながらも、自分の生き方に確信を持ちながら勉学に励み続け、孔子の思いは、その後の中国の歴史に大きな影響を与えて、前漢・後漢の時代にはなんと、「儒教」が国教となったのでした。



仁道政治を掲げて、理想を追い求めて、その教えが国教にまでなった孔子です。

彼の生き方は決して間違っていなかった、ということが確信されますね。



最後に私のお気に入りの孔子の教えを記したいと思います。


君子は人の美を成す 人の悪を成さず 小人は是れに反す



意味は・・・

君子は他人の美点を認めて押しすすめて物事を成し遂げさせ、他人の悪い点が出ないようにするが、小人はその反対のことをしようとする



子どもを育てる時に良く「褒めて育てる」と言いますが、まさにそのことですね。

社会に出てもこの考えは、人の上に立つ人間には絶対必要です。



孔子のように才能のある人物が、社会の不合理な仕組みで埋もれてしまわないような、そんな世の中、社会になってもらいたいなと思いました。



最後までお読みいただき、ありがとうございました(^ω^)

この記事が少しでも、皆様のお役に立てれば幸いです。


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